「ああごめんね、君はまだなんだ」
そう言いながらスーツの男は江波とおるにさらに歩み寄った。あまりに自然なので、とおるは目の前に立たれても、たじろぎすらしなかった。なぜか、男のたちふるまいに親しみを覚えていた。今まで誰にも感じたことがなかったにもかかわらず、ゆるい愛情すら感じていた。
こんなふうに初対面の人間に警戒心を抱かせないのは、男の特技のひとつだった。男の手に刃物が光っていなければ、そのままとおるは昔の、そしてとても親しかった知り合いかと勘違いしていただろう。
「まだってなんだよ」
とおるは自分の声が友人に向けるもののように、気やすく放たれたことに驚いた。男の声音は自然にとおるをゆすり、自分が気のおけない仲であることを、当然のように知らしめていた。だから、男もたやすくそれに応じた。
「君はもう少し経ってから殺すつもりなんだよ」
明日会う予定の時間を聞かれたから返すように、男はとおるの殺害を予告した。まるで忘れていた彼をたしなめるような響きさえ含んで。
*
とおるは猫が好きだ。住んでいるぼろアパートの近くに廃工場があり、敷地内に放置された機械に野良猫親子が住んでいるのを知っていた。親をみーこ、子供をみーちゃん(両方ともみーみー鳴くため)と呼んで、残業手当が出たときはコンビニで缶詰を買い、それをみーことみーちゃんに与えるのが楽しみだった。
その日、とおるはいつものとおり敷地にぼうぼうに生えた草をかき分け、みーこたちが潜んでいるがらくたを目指した。はたしてそこには親子が、とおるを待ちわびていたようにみーみー鳴いていた。みーちゃんはさっそく缶詰の中身をふんふんと嗅いでいた。
しかし、缶詰に頭を突っ込んで食べ始めるみーちゃんを見守っていたみーこが突然体をこわばらせ、遠くを見つめると、いきなりみーちゃんをくわえて逃げ出してしまった。
「あれ、食べねえのか?」
えさを持ってくる人間として少しは慣れていたと思ったのに、まだ警戒されているのかもしれない。とおるは落ち込みつつ缶詰を手に取った。
近くでカラスが鳴いた。とおるはその声の大きさに驚いた。もしかしてみーこはカラスに襲われるかと思ったのかもしれない。すぐそばにいるだろうカラスを探して、誰かが立っていることに気がついた。さらにそれがスーツを着た男であると分かり、とおるはまずいな、と思った。廃工場の関係者だろうか。近頃入り浸る男がいると言われて来ていたらどうしよう。ひしゃげて人が入れるようであったとしても、廃工場は一応フェンスに囲われおり、部外者の進入を禁ず、と書かれたプレートが下がっている。こんなところで何をやってるんだと言われたら嫌だな。
立ち去ろうとして、男がこちらに気づいた。その足取りはこちらをとがめるでもなく、親しい友人を見つけたときのようにかろやかなものだった。その先のとおるも思わぬ人に会えたような奇妙な心地で待っていた。男の手に光るそれがはっきりと鋭利な形を取っていても、とおるが男に抱く温かいものを損なわせはしなかった。
*
「俺を、殺す……?」
刃物を持っているにもかかわらず、その響きはまるで現実味を帯びていなかった。だから、その言葉は友達の間でかわされるふざけあいのようにかるく空中をさまよった。
「今日はこいつを殺したばかりだからね……しばらくは、生かしておくつもりなんだけれど」
そう言って切っ先を向けたところに目をやると、とおるはぞわっと総毛立つのを感じた。そこにあるのはまぎれもない死体だった。
「ひっ、な、なんだよ……これ……!」
倒れているだけとは思えなかった。まくり上げられたシャツの下、へそが見えるべき場所には赤黒い穴が開いており、外側は黒く乾きつつあったが、穴の中心部はぬらぬらと不気味な光を宿していた。
気づくととおるは走り出していた。猫缶をどこかで落としてしまったようで、玄関を開けるときにようやく気づいたけれど、どうでも良かった。扉を開けて、鍵を閉めて、チェーンまでかけた。
殺人現場にでくわしてしまったのかもしれない。それならば、すぐ警察に電話したほうがいい。
(犯人は俺の顔を見てしまっている……)
夢だったらいいのに、ととおるは思った。悪夢でもなんでも……現実でなければなんでもよかった。厄介ごとにはかかわりたくなかった。
*
人々がとおるに向ける視線は「役立たず」だ。とおるは自分が世間から必要とされないことをひしひしと感じていた。それでも生きるために、日雇いの仕事と、週に三日ある工場のパートで糊口をしのいでいた。
工場の仕事に体は慣れていたが、退屈さには慣れなかった。同じ動作を繰り返すうちに、時間が止まっているように感じる。事実、時計は気がおかしくなるほどにゆっくりと進む。そんなとき、とおるの頭は勝手に流行りの歌(それも、完全に覚えていないので覚えているところだけ延々と繰り返される)を流したり、頭の中で誰に向けるでもなく喋りだしたりした。
(明日はこの間みたいなきつい仕事じゃないといいなあ。まあ、仕事もらえるだけましってものだろう。俺みたいなやつは……)
一度自殺に失敗してから、とおるは同年代の若者と比べて極端に卑屈になっていた。それは自殺すらやりとげられない己のふがいなさと、そんなとおるを心配したり、怒ったり、気にかけてくれるような人がいないとあらためて気づいてしまったせいでもあった。
それからとおるはただ働いて、ご飯を食べ、明日も出られるかと聞く日雇いの電話に「出られます」と返事をしたりして過ごした。そのあいだも、自殺の灯火はゆらゆらととおるの心を照らしていた。
とおるがみーこたちを見つけたのは、残業のごほうびに焼き鳥をかじりながら歩いていたときだった。ビニール袋が風に吹かれている、と思いなんとなく目を凝らせば、それは白い猫だった。猫は、それよりもひとまわりもふたまわりも小さい猫をくわえて人間の目の前から立ち去ろうとしていた。美味しい匂いを嗅ぎつけたと思ったら、人間がいてびっくりしたのかもしれない。とおるの足は自然に猫を追っていた。猫は人間に追いかけられているのを知ってか知らずか、ひょいひょいと進んだ。なんだか子供のころ近所に住んでいた野良猫を追いかけ回したときみたいだ、ととおるものそのあとをついていく。白い毛皮は薄暗いなかでもよく目立った。
諦めて家に帰るか、でも、ちょっとでもさわれたら、と思いかけたそのとき、二匹は寝床にしている壊れた機械を見つけると、そこで足を止めた。
まずは、敵意がないことを示した方がいいととおるは思った。とおるは二本目の焼き鳥を袋から取り出して、串からはずしたひとかたまりを、驚かさないように猫たちの近くに置いてみた。子猫がとびつこうとしたが、もう一匹がそれを押し留め、ゆっくりと焼き鳥に近づいた。そして、ためらいがちにそれをぱくっとくわえた。それを見た子猫も同じように肉片にかみつき、とおるが嬉しくなってさしだしたふたつめのかたまりにもがっついた。
生き物に喜んでもらえたのはいつぶりだろう。自分一人で食べるはずだった焼き鳥が猫の生きる糧になるのは、とおるにとっては久しい充足感をもたらしていた。
それから、とおるの日常――スマートフォンのカレンダーと同じで、めくればめくるだけ無意味にだらだらと続く、日付が増えていくだけのもの――には、猫が住むようになった。とおるは今まで生きていたなかで、今が一番幸せだと感じていた。長く、できるかぎり長く続いていくものだと信じていた。男に会うまでは。
*
とおるは迷っていた。警察に言うべきか、何も見なかったことにするか。もちろん言ったほうがいいにきまっている。でも、なかなか電話をかける気にならなかった。
これからあいつに殺されるのか? あれは本当に死体だった? 死体だったとしたら、俺が殺したと思われないか?
とおるは混乱する頭のなかで、最後の考えが怖かった。とおるは、社会が自分のようなくずには優しくないと思っていた。誰も自分を信用しないし、必要としない。自分はいつでも捨てることができる、できそこないの歯車だ。
(一旦、落ち着こう。明日の出勤するときにでも寄って、そこに本当に死体があったら、そのとき通報すれば……。)
なかったらなかったで、もうかかわらなければいい。しばらくは身の回りに気をつけて暮らそう。みーこたちは俺がいないとひもじい思いをさせてしまうだろうから、なんとかアパート付近にあたらしく巣をつくってやって……。
がちゃりと玄関から音がした。
「丁寧にチェーンまでかけているんだね」
ちぎれたチェーンがドアにぶつかった音がした。とおるが首だけを動かして、玄関を見た。そこには、スーツを来た男がやわらかな笑みを浮かべて立っていた。男は、まるで招かれたから来たというように、楽しげにとおるの部屋へ足を踏みいれた。
「靴……」
混乱しきったとおるが男の土足を指摘すると、男はああ、と言い、そのままとおるの腹めがけて力強い蹴りを放った。
「ぅ、げぇ……っ」
混乱していた頭が、すぐに痛みで塗り潰された。とおるは信じられない思いだった。
(痛い、痛い、痛い……!)
今まで人に軽んじられたりさげすまれたりすることはあったが、蹴られるなんてことはなかった。こんなふうに悪意を暴力としてぶつけられたことは初めてだった。
「君が住んでいる部屋が分からなくてね。このあいだ見にきたとき、この隣の部屋とほぼ同時に電気が着いたものだから」
男は喋りながら、どこからか取りだした細い紐で器用にとおるの手首を縛り上げた。抵抗すると、蹴られた場所と同じ場所にこぶしがとんだ。
「土足で入ったのは悪かった。蹴るときに素足だと痛いから、履いたままで蹴りたかったんだ」
男はとおるをうつぶせにすると、その上に乗ったまま喋り続けた。とおるはなにがなんだか分からなかった。お腹がじんじんと痛かった。叫んで誰かに助けてもらいたかったが、殴打されたお腹が痛むのと、男の体重がしっかり乗った今は、うめくことで精一杯だった。
「なんで……」
自分は殺されるのだろうか。なんで、帰ってきてすぐに警察に電話しなかったのだろうか。数分前の自分に警告してやりたかった。ポケットにはスマートフォンが入っていたが、後ろ手に縛られていては、取りだすことは叶わなかった。その代わりに、男がとおるのポケットをまさぐり、それを取りだした。男はそれをなにやら操作したあと、滑らせるようにして遠くに放ると、感じのいい笑みを浮かべる。こんな状況でなければ、好人物と判断しただろう。
「ぼくは君のような人間が気になってしかたないんだ。君みたいな……」
ふいにとおるの頭に手が置かれる。その直後、髪の毛もろとも頭が持ち上げられた。
「酷くみじめで、かわいそうな人間をね」
ごつんと鈍い音がして、じーんとした痛みがとおるの鼻に広がった。床に顔を叩きつけられたらしい。とおるは温かいものが鼻の奥から流れ出すのを感じた。
「かまいたくって仕方がないんだよ。一目見たときからずっとそう思っていた」
「俺が何を…」
何か悪いことでもやったのか? 先週やらかしたパートのへまのつぐないは、これに値するものだろうか。人の役に立たないだけで、これほどのことをされなければいけないのか。とおるは過去に思いを巡らせたが、今の状況を理解する手助けになるものは存在しなかった。そもそも、会ったばかりのこの男に関する記憶は一切なかった。
男はまたも思いやりに満ちた笑みを浮かべると、突飛な行動に出た。とおるに体重をかけたまま、とおるのズボンを切り裂いた。
(切られる!?)
反射的に暴れるも、太ももにあたる刃の冷たさに驚き、うごきを止めた。
「暴れると余計な傷を負うことになるよ」
男はそのまま下着も裂いた。
「なにすんだよっ」
嫌な空気を感じ取ったとおるの声は震えていた。あざけりと、好奇心と、わずかな欲望をにじませたそれは、とおるの肌を冷や汗でじっとりと湿らせた。
「やめてくれ……」
とおるは、この手のことがまさか自分に起きるとは考えたことがなかった。世の中のどこに、自分のようなちっぽけでとるに足らない人間をさらにいたぶろうと思うやつがいるというのか。目の前がまさにそのたぐいの人間であることを、まだ信じきれずにいた。
男は床に転がっていた飲みかけのお茶のペットボトルを取った。それを飲むのかと思いきや、尻に冷たさを感じて体が思わず震えた。
「まあなにもないよりは――」
その冷たさと相反したものが、とおるの濡れたそこに押しつけられる。嘘だろう、まさか、少し濡らした程度で……。
「――ましだろうね、痛いと思うけど」
「ひ、い、嫌だっ、やめてくれっ、本当に……」
みち。そして、体に重く沈み込む鈍痛をはねのけて突き刺さる、鋭い痛み。
「い……いた、痛い、って! 無理だ、そっちの経験とかないからっ、俺は」
「じゃあこれが初体験ってことだ」
がんばれーと空っぽな声とともに、とおるにとって凶器でしかないそれがめりこんでいく。
「痛い痛いいいいぃでぇぇえっ!!」
「うるさいよ」
痛みの行き場が絶叫となって放たれる前に、開いた口に布がかまされる。かすかな匂いで、それが自分が履いていた靴下だと分かる。とおるの声が布地に吸われてくぐもったのを確認すると、男はまた腰を動かした。これからそこが裂けようとどうなろうと構わないということを示す容赦のなさだった。
そもそも性交するためにある場所ではないうえ、なにも準備をしていない。経験を経て、相手の協力があれば得られただろう快楽は、肉を裂く嫌な音と、これまで感じたことのない逃げ場のない痛みで塗り潰された。
「うぐぉおおご、お、ぉおおお……!!」
痛い。はやく終わって欲しい。誰か。この姿を見られても構わない。恥ずかしさを意識する暇もなかった。ひと突きごとに新鮮な痛みが足先から頭のてっぺんまで走り抜けた。いっそ気絶できたらと思った。おぞましく、考えたくもないものが自分の直腸を快楽を得るために使っている。
「うぅう、うぐ、うぅっ、うっ」
おそらく血が流れている。いつ開けたか分からない飲みかけのお茶で濡らされた程度で、ここまで滑るようにはならないだろう。あらたな液体のおかげで多少は抵抗がなくなったものの痛いには変わりなく、あいかわらず吐き気のする圧迫と激痛がとおるの全身をひくつかせた。
(早く終わってくれ……)
この行為に終わりがあることを知っているのが唯一の救いだった。あれが自分の中に出される――考えたくもないことだったが、とおるはそれを待ち望んだ。
ふいに男が動きをとめると、とおるを物でもあつかうようにして仰向けにした。男の目はどこまでも暗かった。
男は自分のスマートフォンを取りだすと、とおるに向けた。正しくは、とおるの血塗れの部分に向けた。さんざんとおるを痛めつけたそれを挿れながら。
「声がくぐもっているのが残念だなあ」
自分で丸めた靴下を入れたにもかかわらず男は言った。挿入の痛みにしかめる顔を、男の目のように暗いレンズが映している。
「ぐぅう!? うぁ、あぁあ!!」
嫌だ。こんな姿を、顔を録らないで。とおるは身をよじったが、殴られた腹が痛むだけだった。男はあいかわらず穏やかに笑っている。とおるは男を睨みつけたが、その顔面白いねと言う男の言葉に気力をなくしてしまった。
目の前の男への怒りと恐怖。会って一時間もしない男に、とおるはそのふたつをぼこぼこと煮えたぎるように感じていた。いくら自分が社会的に価値のない人間であろうと、こうまでされるいわれはない――。しかし、そんな人間をここまでいたぶれるなんて、こいつは一体なんなんだ?
男が腰のうごきをやや早くした。出されるくらいならいますぐ抜いてほしいきもちと、早く終わってほしいきもちが交互にあらわれ、とおるはぎゅっと目をつむった。こうして耐えたら、もうすぐ終わる。
どくん。
意識をそらそうとしても、とおるは自分の中で男が数回びくびくとはねるのを無視できなかった。おぞましい感覚だった。
(早くどっかいってくれ……そしたら、風呂入って、洗って……)
「わあ、泣いてるの? こっち向いてよ」
(気持ち悪い、中がぞわぞわする……)
ぽんっとスマートフォンから録画を終了する音がした。男が身支度を整える気配もする。
「これでおあいこだね。もし君が今日見たことを誰かに話すのなら……この動画をばらまいてあげる」
どこが「おあいこ」なんだ? とおるはようやく自分がなぜこんな目に遭っているのかを知った。あれを――死体を見てしまったからだった。それで十分な気もするし、信じられなくもあった。本当に、それだけなのか?
「ま、君みたいなのが言ったところで誰も信じないとは思うけどね」
男はドアノブを握りながら言った。そしてついでのように付け足した。また来るね、と。
とおるは部屋中をはいずりまわった。なんとか台所の扉を開け、包丁を取り出し、紐を慎重に切った。痺れた腕で靴下を取ると、口の中はからからだった。
また来るね。とおるは頭に残るその言葉ごとシャワーで洗い流そうとしていた。しかし、ざあざあと打ち付ける音は、男の言葉をかえって浮き上がらせてしまった。
「くそ……なんで……なんでだよお……」
いくら洗っても、こびりついた男の感触は拭えないままだった。腹のあざ以上に、あれが中を行き来する感覚が憎かった。誰か助けて欲しいと思った。辛かったね、もう大丈夫だよと慰められたかった。そんな人は存在しないことに、とおるは何度でも絶望するのだった。
*
男――谷河正己は、とおるを犯した足で二十四時間開いているスーパーに寄ると、惣菜を買った。ここのスーパーは値段のわりに味がおいしく、今日のように遅く帰る日はよく利用していた。しかも今日は売り切れていることが多い好物のハーブチキンソテーが残っていた。
いいことは重なるものだ、と正己思った。とおるに見つかったときはどうしようかと思ったが、思い切って後を追ってよかった。想像通り弱々しく、かんたんに楽しむことができた。
鶏肉に合わせて白ワインをのみながら、録画した動画を観る。ゆがんだとおるの表情が、何度でも映し出された。
明日ひと仕事終えたら整体にでも行こう。正己は肩をぐるっとまわした。ちょっとした疲れでも、蓄積すると怪我や病気を招きかねない。とくに今日はたくさんうごいたのだから、体をいたわってやらねばならない。
そして――。十分にいたわったら、また遊びにいこう。